ハチワレ猫の大吉との出会い[1994年7月]

1997年6月22日の大吉の写真(フィルム写真をスキャン) ペット

1994年7月の夏の暑い日に、その後に大吉(ダイキチ)と名付けられるオスの子猫と出会いました。そのときの大吉はたぶん野良猫で、人懐っこく足にまとわりついてきたのを思い出します。出会いの場は東京都武蔵野市の五日市街道側の西久保というところ。その頃、私は美術大学を目指しJR三鷹駅近くにある美大予備校に、夏期講習から通う予定でした。

当時は普通だったのですがアパートにはお風呂がなかっため、私はその日の夕方、近くの銭湯に出かけたところでした。銭湯へ向かって100メートルくらい歩くと、子猫が目の前の男性の足にまとわりついていました。その子猫が後の大吉でした。白と黒のハチワレ猫で、ずいぶんと小さかったのを覚えています。子猫は男性が行ってしまうと今度は私に近づいてきました。その子猫はとても人に慣れていて、のどを鳴らしながら、おそらく食べ物をねだって私の足にも体を押し付けてきました。

その当時の私は猫を飼ったことはなく(犬は2匹目を実家で飼ってました)、また猫が特に好きという訳でもなかったのですが、その子猫がとても小さく、そして可愛らしかったので銭湯はあきらめアパートまで連れ帰ってしまいました。後にも先にも猫を家に連れて帰ったのはこのときだけです。子猫はアパートの2階まで自分で階段を登ってきて、玄関を開けるとちゅうちょせず部屋に入っていきました。私は直ぐに牛乳と食パンを与えました。このときのパンが理由で、その子猫はその後ずっとパンを好む猫になりました。

アパートではペットを飼えなかったので、大吉(ここから大吉と呼びます)をずっと部屋においておくのが難しいのは明らかでした。アパートの目の前が大家だったので尚更でした。その日は、出張のついでに父がアパートに寄っていったのですが、大吉の可愛さは認めつつも飼わないようにと念を押していきました。それでもその日の夜は、大吉を部屋にいれたまま寝ることにしました。大吉は何にでも興味津々で、私の瞬きにさえ反応して私の顔をめがけて駆け寄ってきました。おそらく大吉は私の布団の上で寝たはずだと思います。

翌日の最初にしなければならないことは、猫砂を買ってくることでした。全くトレイをしていなかったので、大吉の体が心配になってきました。もちろん部屋を汚されるのも避けたかったです。どこから買ってきたのかは覚えていませんが、私が猫砂を買ってくると大吉はすぐにオシッコをしたのを覚えています。食べ物は前日と変わらず牛乳と食パンでした。その日はタイミングが悪く高校時代の部活の仲間と会うことになっていたので、大吉を部屋に残していくべきかどうか、とても迷いました。その知人と会うのがどこだったのか、あるいは私のアパートまで来るとうことだったのかは思い出せません。

とても迷いましたが、大吉を部屋においておけないと決心し、大吉を外に放すことにしました。玄関を開けると大吉は足早に階段を駆け下りていきました。大吉の姿が見えなくなると、そのときはこれで大吉と再び会うことはないと思いました。私は予定どおり知人と会いましたが、その最中も大吉のことがずっと気になっていました。特に交通事故にあわないかと気が気ではなかったです。夜になると、その知人との共通の知人(部活の先輩)の家にまでいくことになり、結局朝までアパートに帰ってくることはできなかったです。

大吉を外に出してからずっと大吉のことが気になっていて、翌日にアパートに戻ってくるまでそれは変わりませんでした。大吉はもうどこか別の場所にいっていないだろうと考えていましたが、予想に反してアパートの近くの空き地で一人で遊んでいました。おそらく虫かなにかを追いかけていたようでした。大吉は私を見た瞬間はとても怯えた仕草を見せましたが、直ぐに私に気づき一昨日と同じように寄ってきました。そして同じようにアパートの部屋の中までついてきました。

そのアパートの部屋で大吉を飼えないのは間違いのないことでした。大家の家が目の前にある状況で猫を飼うのは不可能でした。それに大吉はまぁまぁ大きい鳴き声をしていました。といって2回も部屋に入れた後では路上に戻すこともできず、いろいろと考えをめぐらせました。そして、たどり着いた結論は実家に連れていくことでした。私は排気量50シーシーのスクーターを持っていたので、その制限速度30キロメートルのバイクで約400キロメートル離れた実家まで大吉を連れていくというのが唯一思いついた解決策でした。私のスクターは他の多くのスクターと同様に足を揃えて乗せることができる形状をしていたので、そこに大吉を入れた洗濯カゴ(簡易的なフタ付き)を載せて実家まで向かうことにしました。

出かけたのは深夜過ぎだったと思います。五日市街道を都心に向かって走り、何とか国道4号線にたどり着き後はひたすら北上するというルートでした。実家は宮城県仙台市の北側に位置する富谷町というところで、国道4号線がすぐ近くを通っていました。大吉がこの約400キロメートルの移動に耐えられるかどうは不安がありましたが、途中で大丈夫そうだという確信を持ちました。大吉は不安で鳴き声を上げていましたが、諦めたのか疲れたのかしばらく経つとスクターに揺られながら寝てしまいました。

2〜3時間程度に1回は小休憩をとるようにしました。それは大吉よりスクーターが心配だったからです。排気量50シーシーのスクーターは一気に数百キロメートルを移動するよにはおそらく作られておらず、途中で故障したら一大事でした。そういった理由で国道から少し離れた林の中やコンビニエンスストアの駐車場などで休憩しましたが、自由に放して遊ばせておいた大吉がなかなか言うことをきかず、捕まえるのに苦労した場面が何回かありました。また、スクーターの燃料タンクが小さいこともあって大凡100キロメートルの走行で1回は給油が必要でした。

だいたい12、3時間の移動の末、実家にたどり着きました。実家に母と祖父がいたのですが、母は私の行動には呆れていました(その後すぐに大吉を溺愛するようになるのですが)。実家にはチャコという柴犬に近い雑種のメスの犬がいて、大吉を見るなり牙をむき出しにして迫ってきました。大吉も驚いて応戦しチャコの目を爪を出した前足で引っかいてしまいました。大吉と目に傷を負ったチャコを近くの動物病院に連れていくことになりました。チャコの目は心配したほどではなく、すぐに治るものでした。大吉も病気はなく一安心でした。動物病院の獣医が大吉は人馴れしたよい猫だ、と言っていたのを思い出します。大吉は生後3ヶ月程度だったようです。

私はその夜は実家で過ごし、翌日の朝にスクーターで来た道のりを戻ることにしました。真夏の日差しの強い日で皮膚が赤くただれてしまいました。チャコが大吉の存在に慣れるには1ヶ月はかかったようでした。チャコはストレスで太ってしまい、その1ヶ月間母は2匹の4本足の家族に苦労し、ラジオのペット相談にまで助言を求めたそうです。ペット相談のアドバイスは犬の匂いを猫につけるというものだったようです。その後大吉はあっという間に成長し、冬には体つきのよい猫に成長しました。生まれた時からだと思いますが、尻尾は何ヶ所でも折れ曲がっていて一つの丸い塊になっていました。大吉は2015年7月14日にこの世を去るまでの21年間、おそらくとても幸せな一生を実家で過ごしました。

私が大吉と暮らしたのは大学卒業後の2019年4月から2002年8月までの3年4ヶ月、海外生活を終えて実家に戻ってきた2011年8月から亡くなる2015年7月までの3年11ヶ月、合計7年3ヶ月と大吉の一生のうちの三分の一ぐらいにしかなりませんでした。それでも海外にいるときは高齢になった大吉の健康はいつも心配の種でした。大吉と21年間ほど毎日暮らしたのは私の両親になります。大吉が一生の間に出会った我が家の動物たちは、チャコ(犬)、福(猫)、ジェイ(猫)、カム(猫)、そしてアスター(犬)でした。

大吉の写真

1994年7月20日の大吉の写真(フィルム写真をスキャン)
大吉(0才) 1994.7.20
1994年7月21日の大吉の写真(フィルム写真をスキャン)
大吉(0才) 1994.7.21
1994年8月9日の大吉の写真(フィルム写真をスキャン)
大吉(0才) 1994.8.9
1995年6月4日の大吉の写真(フィルム写真をスキャン)
大吉(1才) 1995.6.4
1997年6月22日の大吉の写真(フィルム写真をスキャン)
大吉(3才) 1997.6.22
1999年5月2日の犬のチャコと大吉の写真(フィルム写真をスキャン)
チャコ(10才)と大吉(5才) 1999.5.2
大吉の写真(2002年1月2日)
大吉(7才) 2002.1.2
大吉と福の写真(2011年9月11日)
大吉(17才)と福(7才) 2011.9.11
大吉の写真(2015年6月20日)
大吉(21才) 2015.6.20