岩手県八幡平の松尾鉱山跡地の廃墟の写真を撮ったのは、今から20年以上前。正確な日時は分からないが、写真に雪があることから晩秋だったのではないかと想像する。近所の知人の友人が勤める地質調査会社のちょっとした作業をするために、八幡平まで行ったついでに寄ったのだと思う。これも正確には思い出せないが、八幡平には合計10回弱行ったと思う。このブログの内容とは関係ないが、その知人の友人は後年その地質調査会社の社長になった。
その頃はそういった私にとっては全く専門外の、少しばかり体力を使う臨時の地質調査の仕事をしていた。仕事の対象地域は主に宮城県内だった。そのような仕事を一緒にしたのは私より20歳以上も年上の近所の知人で、八幡平に行ったのもその近所の知人と私の二人のことが多かったと思う。そのとき居住していた宮城県富谷町(現富谷市)から岩手県北部の松尾鉱山跡地までは東北自動車道を通って約2時間半はかかった。東北自動車道のインターチェンジは、仙台泉から松尾八幡平までだった。
松尾鉱山跡地は標高約900メートルに位置する。写真を撮った日の、山の肌寒い空気がなんとなく思い出される。松尾鉱山跡地の廃墟は鉄筋コンクリートの集合住宅が大半だった。それらの集合住宅は、緑ヶ丘アパートと呼ばれていたらしい。晩秋のすっかり茶色になったススキが廃墟となった建物を取り囲んでいた。この日の空は青く、廃墟の灰色やススキの茶色との対比が強かった。
廃墟の側には湿地帯があり、2つの池が見えた。今になって地図で調べてみると、これらの池は島沼と呼ばれるものの一部であるようだ。
松尾鉱山は1960年代に最盛期を極めた硫黄鉱山であったが、1960年代後半には硫黄の国内需要が全くなくなり、1972年に閉山となった。偶然ではあるが、1972年は私の生まれた年で、日本の歴史上では沖縄返還の年だ。松尾鉱山に話を戻すと、人口13,000人以上の最盛期には「雲上の楽園」と呼ばれるほど、近代的な都市だったようだ。鉱山と近代的な都市とを結びつけるイメージを、私はなかなか持てはしないが。
私のやや臆病な性格上、廃墟の建物の中に踏み入るのは気が進まなかったはずだが、それでも建物内部の写真が1枚残っている。おそらく同行者は臆することもなく建物の中に足を進めて、私も一緒についていったのだろう。写真はリバーサルフィルムのようであるが、使用したフィルムの種類やカメラは正確には思い出せいない。写真を補正する前の、はっきりと分かる周辺光量落ちやクリアな写りから、カメラはおそらくコニカ ヘキサー(Konica HEXAR)ではないかと思う。今は実家にあるフィルムを調べれば、それも正確に分かるだろう。
住人が消え風化した風景の中、崩れかかった人工物の群れと、茶色に染まったススキや青い空の組み合わせに、不思議と澄んだ美しさを感じたのが思い出される。このときの美しさは、ある種の心象風景として定期的に記憶の表層に上がってくる。